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2011年9月 5日 (月)

リハビリ

 なんか文章にして自分の考えをまとめるとか、すっごく不得手になってしまった。ツィッターとかしててさ、私が考えて考えて言葉になんなかったようなことを、すぱっと言葉にしちゃう人がいっぱいいて、「アタシの言葉なんて、発信する必要あるのかな」って思っちゃってさ。

 でも、アタシの言葉を言葉にする必要はあるのよ。アタシのために。

 そゆわけで、またぼちぼちとブログ書きたいんだけど、今の仕事にエネルギー吸い取られちゃうんだよなー。自分じゃない自分でなきゃ仕事を全うできないものだから、そこでストレスがたまるわけさ。で、自分を自分でなくする緊張感をほどくために飲酒するのね。酒呑むと、もう何もかもが面倒になっちゃう。

 でもね、仕事して酒呑んで面倒で何もしないってつまんないんだよね。こういうのが社畜的な日々の過ごし方なのかしらね。アタシ、そんなのイヤよ。

 とゆーわけで、なにか、考えて文章にする(140字以上の)トレーニングをまた始めてみようと思う。

 ま、しばらくはリハビリよ。

2011年7月10日 (日)

LIFEの「少年コロッケ」

 新じゃがの季節に失業していたので、今年はポテトコロッケをよく作った。

 もともと私はごはんのおかずとしてのコロッケには懐疑的であった。「コロッケて芋と小麦粉とパン粉やろ?ひき肉入れたって8割5分は炭水化物やんけ。炭水化物がコメのおかずになるかいな。ゴハンのおかずには、肉、肉を喰わせろ」と思っていた。

 だが、飯島奈美さんのレシピで作った料理はどれも本当に美味しいので、ものは試しとコロッケにもチャレンジしてみたのであった。

 出来映えはこれ。

P5040412

 食べてみると、「こ、これはッ…!美味ではないかッ。口の中に広がる、芋の優しい味わい。ほのかに香るバターのコク。そしてこの、衣のサクサク感…。絶妙ではないかッ…!」とテルマエ・ロマエのルシウスの口調で感激するくらい旨かったです。

 イトイさんは「じぶんなりのくふうはやめて」とおっしゃっていたのですが、やっぱり肉が食べたかったので、後日再度作った時にはひき肉増量しちゃったんですよね。そしたら芋の風味がしなくなっちゃって、でも肉料理じゃないし、っていう非常に中途半端な味になってしまいました。肉の食べたい方は最初からメンチカツお喰いになって?ってことですね。

 このコロッケのレシピはほぼ日のサイト内にはなく、書籍に載ってます。ご興味ある方はぜひ。

暑さの恵み

 あんまりにもあっちくってあっちくって何にもする気になんないのでブログ更新。昨日も暑くってビールがビールがススムくんで二日酔いでもあるし。ほーんと、呑んでだらだらする以外のことはしたくない近江盆地の夏であります。

 しかしまあ、暑さのおかげというものもあります。長らくただの観葉植物だった胡蝶蘭に花が咲きました。

P7090507

 蘭って暑いところが原産ですものね。

 この鉢にはあと二本、花芽のついた株が植わってます。残暑って九月いっぱいまでは続くだろうし、その二本も咲いてくれるといいなあ。

 しかし、まだ7月だぞ。9月いっぱいまでまるまる3ヶ月ほどあるぞ。その間ずーっと休日は二日酔い廃人なのかしらん。いや、呑まなきゃいい話なんですけどね、呑むから何にもしたくなくなるんじゃなく、何にもしたくないから何にもできない状態にしちゃうために呑んでるってのがオイラの実情なんだよね。


 まーとりあえず二日酔いをなんとかせねば。迎え酒もいいが(更によっぱらって二日酔いの気持ち悪さを忘れる)体に良くないのは間違いないし、アセトアルデヒドを体外にパージだ。麦茶のがぶ飲みするか。

 園芸とは全く関係のないところに着地してこの記事は閉じるのだった。

2011年7月 6日 (水)

ひさびさびさびさ

 ブログ絶賛放置中!いろいろ身辺がごたごた続きなの!毎日毎日疲労困憊のへろへろでっす。


 そんな中久しぶりに爆笑したお悩み相談


 皆様もぜひ読んでみてください。

2011年4月24日 (日)

イレイザー

 非常に牧歌的な筋運びの映画であった(アメリカ的な意味で)。

 ええもんがおって、わるもんがおって、デカい銃ブッ放して爆発が起こって、最後にはわるもんが死んで終わり。

 15年前の映画か。もうこんな筋書きの映画は、米国では作られんかもしれん。自分たちが憎しみの対象となりうることを彼らは知ってしまったから。あの9月11日に。

 現カリフォルニア州知事の転職のタイミングは、良かったということか。

2011年4月22日 (金)

戯れ言

 なんか、このごろ昼酒とかしちゃっていかんなあ。多分もう、アルコールが麻薬と化す依存症の域に達しているから、時間を決めて呑もうとか、量を決めて呑もうとか、アルコールに逆らってもムダなんだけど。

 「じぶんをばかにしちゃいけない」というイトイさんの言葉をいつも思い出しているのになあ。アルコールに逆らえないってのは、「じぶんをばかにすること」だって、自分ではわかっているのに。

 「もういい。もう(かなりタメ入る)、いい。もう十分だ。おれが知っていたお前はこんな奴じゃなかった。あの頃のお前は一体どこへ行っちまったんだ。お前は快活で勤勉な奴だった。こんな酒浸りになる奴じゃなかった。それが今はどうだ。お前はもう昔のお前じゃない。おれの知っていたお前じゃない。どこかへ行っちまえ。今すぐにだ。なんならおれが手を貸してやろうか。ああすまない、ついつい取り乱してしまった。さっきの言葉は忘れてくれ。少し夜風に当たろう。馬車を用意してくれるか、モンスター」という、池乃めだか師匠の一人コントが脳内でエンドレスリピートされている今日この頃でございますよ。

2011年4月 7日 (木)

ひのきの桶

 収益が赤十字に寄付されるという企画で、「テルマエ・ロマエ」の桶を買いました。

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 次に一人暮らしをする時に使おうと思います。

 おまけでついていた升。

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 残念ながら飲み物を入れるのには使えません。風呂で一杯ひっかけるのに使いたかったのだけれど。

 おまけその二。

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 ブラ下げて街をブラブラするのには少々勇気がいりそうなデザインです。

 これらはこちらで購入できます。

 ちなみに私がブログにあげる写真にはしばしば缶ビールが写っていますが、これはスケールバーの代わりです。缶ビールと比較して大きさがわかるように。

2011年3月 6日 (日)

ジャメリカン・ハイスクールライフ

 前項で、日本は紙を豊かに遣える国であったが、欧米ではそうではなかったという内容の記事を書いた。

 私、アメリカTVドラマで見るハイスクールの机の小ささが不思議だったんだけど、前の記事書いて、あ、そかって腑に落ちたのよ。日本では紙が豊富の名残でノートブックも豊富に遣えるのよね。

 それに対して、「マイ黒板」を使用する学校教育から始まった欧米近代学校教育では、やっぱりノートブックを乱用することはまだ馴染んでいないんじゃないかな。授業もきっと、板書中心じゃないのよ。がりがり板書してるんじゃなきゃ、じゃあなにやってんだっていうと、やっぱりディスカッションなのかなあ。

 ひたすら板書を続ける授業法と、ディスカッション中心の授業法だと、おそらく思考や記憶に関しての脳の使われ方はかなり違うはず。

 昔エゲレス人に、「僕らは新しいことを思いつくことに優れてるんだ。ラグビーもフットボールも英国発祥だろ。日本人はコピーするのが上手いよね」と言われて、「ちゃうわい!日本人は欧米発の技術の進歩を触媒しとるんじゃい。」と反感を抱いたものだ。日本人がテクノロジーの進歩を触媒していなかったら、ケータイは箱ティッシュくらいの大きさで、TVはまだまだ分厚い場所塞ぎだったんじゃないかなあ、と思う。

 この違いは、「授業といえば板書」と、「どう見ても板書にはふさわしくない程度の天板が申し訳程度にくっついてる椅子に座って行う授業」から生まれてくるんじゃないのかなあ。

 欧米での学校教育をわしは受けたことはないが、板書中心の授業は正直睡魔との戦いもおおきな比重を占めている。

 日本人は総じて知的水準が高く勤勉だとは、私も周囲を見ていて思う。だが、こうした「板書中心」の授業によって養われた性質だけではなかなか世界に伍していきにくいから、日本はいま混迷しているのでは。

 板書もするが、欧米式の「板書だけではない授業」とのハイブリッド教育ってできないものなのかな。

 これができれば、ちょっとしたコペ転になるんじゃないかなあ、と考えた所で今宵はこれまでに致しましょう。わし、どうもロタヴァイルスに感染してるみたいで。

 皆様、どうぞご自愛くださいませ。

2011年2月27日 (日)

紙はどこへ行くのか

 数年前は、外国人に「折り紙」を披露すると喜ばれたそうだが、今もそうなのだろうか。

 実は、紙を遊びに使えるのはけっこう贅沢なことなのらしい。

 以前、白洲信哉さんが講演で、「英国では産業革命の際に木を乱伐したから、あんな原っぱだらけの国になっちゃったんです」という旨のことをおっしゃっていた。英国に比べると、日本の自然は強靭なのだそうな。切ってもまた木が生えてきて育つ。

 

確かに、夏場などむしってもむしっても蔓延る雑草には辟易する。両岸をコンクリートで固めた河川でも、いつのまにやら中洲ができ、そこに草が生え、雑木がなんだか立派に育っていることなんてめずらしくない。

 日本ではまた、そうした植物の種類も多様で、多様だからこそ紙に加工しやすい木も生えていたし、育てることもできたのだろう。中世、ヨーロッパでは羊の革をなめして文字を書き付けていたが、植物が多様で繁茂しやすいアジアでは字を書き付けるものは紙だった。贅沢に紙を遣える環境だったからこそ、書道という文化が発達したのだと思う。折り紙もまた然り。

 江戸時代の日本人の識字率の高さもまた、紙が豊富なことに依ったのだと思う。紙だと、先生の書いたお手本とっておけるしね。赤毛のアンがギルバートの頭にたたきつけたマイ黒板は書いたものを消さないと次の授業で使えないもの。聴いた話だと、10年くらい前まではフランスの学校ではノートはあんまり使わず、「マイ白板」をみんな持ってってそこに計算を書き付けたりしてたんだってさ(今はどうなのか知らない)。そういや西洋絵画は布に描くね。

 そして羊皮紙の本なんて庶民が持てるものではなかったようだ。紙の製法が中国から伝わり、グーテンベルクが活版印刷を発明するまで、ヨーロッパでは本は貴重品だった。いや日本ではどうだったのかとか知ってるわけじゃないんだけどさ。

 電子書籍に欧米がいちはやく対応したのもその名残かなあと思うんだよね。キンドルやらiPadやらの形ってまんま、「マイ黒板」じゃん。

 私はPCモニターをずっと見てると目が疲れて困るので、ネット上の文献とかは紙に印刷してから読む。まあ、電子書籍の端末はバックライトを使わないとかで、PCモニターのように疲れたりはしないらしいけど。

 ただ、オンライン上にあるテキストの、ハイパーリンクを辿り続けると思考は散漫になるという。次々に提示される情報を処理するために脳が忙殺されるらしい。ネットサーフを続けると書物を読むよりも思考が浅くなるそうだ(ネット・バカ:ニコラス・G・カー著、青土社 参照)。

 これは私も心当たりがある。この頃、ちょっと堅い内容の本を読もうとすると気が散って仕方ないし、思考もまとまらない。ブログが書けなくなったのも、考えを文章に上手くまとめることができなくなったから。

 だから、教科書の電子書籍化に私は懐疑的である。小難しい語句も、リンクを辿れば即意味を知ることが出来るというのはものすごく便利だが、辞書を引く方式に比べると、その「小難しい語句」を短期的にとはいえ記憶する必要がなくなっちゃうんだよな。すぐに解決しちゃう問題って記憶に残りにくいんだよ。リンクが多ければ多いほど、その先にある情報が必要か不必要かの判断に迫られるし。のべつまくなしに情報が入ってくると、その処理作業に追われちゃって、もう一段深いことを考えるとこまで脳がついていけないんだよね。

 紙や印刷というテクノロジーの出現によって我々の脳は変容してきたらしい。地図や時計の出現でも私たちの世界感は変わったっていうからね。電子書籍によっても変化するだろう。

 こうした変化に対応するにあたって、私は「速読」と「情報の仕分け能力」を伸ばさないとキツいなと思っている。150人以下しかフォローしてないツィッターでさえ、全部読もうとすると膨大な時間を費やす。「今、必要なツィート」と「今は流しちゃっていいツィート」を短時間で見極める技術がなければ、のべつまくなしにツィッターにアクセスしなくてはならなくなりそう。

 そしたら思考どころかルーティンワークでさえ集中するのが難しくなるだろうなあ。

 しかしネットは便利で面白い。一時飽きてもやっぱりまた面白くなる。便利で面白いものから遠ざかるのは苦役以外の何物でもないので、思考が浅くなる問題については、一つの情報について、ゆっくりとじっくりと考える技術を意識して維持するようにトレーニングするのがプラクティカルかな。

 ちなみに読書は「慣れ」なので、集中出来ないなりに形だけでも文章を追う訓練で、文章の内容に没入するまでの時間を短くすることが出来ます。

2011年2月26日 (土)

混雑

 ツィッターにつながらない。  みんなー、ツィッターしてないで「嵐にしやがれ」とか観ないの?

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