数年前は、外国人に「折り紙」を披露すると喜ばれたそうだが、今もそうなのだろうか。
実は、紙を遊びに使えるのはけっこう贅沢なことなのらしい。
以前、白洲信哉さんが講演で、「英国では産業革命の際に木を乱伐したから、あんな原っぱだらけの国になっちゃったんです」という旨のことをおっしゃっていた。英国に比べると、日本の自然は強靭なのだそうな。切ってもまた木が生えてきて育つ。
確かに、夏場などむしってもむしっても蔓延る雑草には辟易する。両岸をコンクリートで固めた河川でも、いつのまにやら中洲ができ、そこに草が生え、雑木がなんだか立派に育っていることなんてめずらしくない。
日本ではまた、そうした植物の種類も多様で、多様だからこそ紙に加工しやすい木も生えていたし、育てることもできたのだろう。中世、ヨーロッパでは羊の革をなめして文字を書き付けていたが、植物が多様で繁茂しやすいアジアでは字を書き付けるものは紙だった。贅沢に紙を遣える環境だったからこそ、書道という文化が発達したのだと思う。折り紙もまた然り。
江戸時代の日本人の識字率の高さもまた、紙が豊富なことに依ったのだと思う。紙だと、先生の書いたお手本とっておけるしね。赤毛のアンがギルバートの頭にたたきつけたマイ黒板は書いたものを消さないと次の授業で使えないもの。聴いた話だと、10年くらい前まではフランスの学校ではノートはあんまり使わず、「マイ白板」をみんな持ってってそこに計算を書き付けたりしてたんだってさ(今はどうなのか知らない)。そういや西洋絵画は布に描くね。
そして羊皮紙の本なんて庶民が持てるものではなかったようだ。紙の製法が中国から伝わり、グーテンベルクが活版印刷を発明するまで、ヨーロッパでは本は貴重品だった。いや日本ではどうだったのかとか知ってるわけじゃないんだけどさ。
電子書籍に欧米がいちはやく対応したのもその名残かなあと思うんだよね。キンドルやらiPadやらの形ってまんま、「マイ黒板」じゃん。
私はPCモニターをずっと見てると目が疲れて困るので、ネット上の文献とかは紙に印刷してから読む。まあ、電子書籍の端末はバックライトを使わないとかで、PCモニターのように疲れたりはしないらしいけど。
ただ、オンライン上にあるテキストの、ハイパーリンクを辿り続けると思考は散漫になるという。次々に提示される情報を処理するために脳が忙殺されるらしい。ネットサーフを続けると書物を読むよりも思考が浅くなるそうだ(ネット・バカ:ニコラス・G・カー著、青土社 参照)。
これは私も心当たりがある。この頃、ちょっと堅い内容の本を読もうとすると気が散って仕方ないし、思考もまとまらない。ブログが書けなくなったのも、考えを文章に上手くまとめることができなくなったから。
だから、教科書の電子書籍化に私は懐疑的である。小難しい語句も、リンクを辿れば即意味を知ることが出来るというのはものすごく便利だが、辞書を引く方式に比べると、その「小難しい語句」を短期的にとはいえ記憶する必要がなくなっちゃうんだよな。すぐに解決しちゃう問題って記憶に残りにくいんだよ。リンクが多ければ多いほど、その先にある情報が必要か不必要かの判断に迫られるし。のべつまくなしに情報が入ってくると、その処理作業に追われちゃって、もう一段深いことを考えるとこまで脳がついていけないんだよね。
紙や印刷というテクノロジーの出現によって我々の脳は変容してきたらしい。地図や時計の出現でも私たちの世界感は変わったっていうからね。電子書籍によっても変化するだろう。
こうした変化に対応するにあたって、私は「速読」と「情報の仕分け能力」を伸ばさないとキツいなと思っている。150人以下しかフォローしてないツィッターでさえ、全部読もうとすると膨大な時間を費やす。「今、必要なツィート」と「今は流しちゃっていいツィート」を短時間で見極める技術がなければ、のべつまくなしにツィッターにアクセスしなくてはならなくなりそう。
そしたら思考どころかルーティンワークでさえ集中するのが難しくなるだろうなあ。
しかしネットは便利で面白い。一時飽きてもやっぱりまた面白くなる。便利で面白いものから遠ざかるのは苦役以外の何物でもないので、思考が浅くなる問題については、一つの情報について、ゆっくりとじっくりと考える技術を意識して維持するようにトレーニングするのがプラクティカルかな。
ちなみに読書は「慣れ」なので、集中出来ないなりに形だけでも文章を追う訓練で、文章の内容に没入するまでの時間を短くすることが出来ます。
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